猫がにゃーにゃー言うので何かと思ってついて行ったらコタツにもう一人の猫が入ってて自分が入れないという感じのものだった。
しかしこれは私にはどうしようも出来ないことなので、仕方ないからご飯あげといた、
食べてた。多分食べ終わったらまた起こしに来るんだろうな。
猫がにゃーにゃー言うので何かと思ってついて行ったらコタツにもう一人の猫が入ってて自分が入れないという感じのものだった。
しかしこれは私にはどうしようも出来ないことなので、仕方ないからご飯あげといた、
食べてた。多分食べ終わったらまた起こしに来るんだろうな。
そういや新興宗教にはまりそうな人類がめちゃくちゃ身近にいたんだった。(私の母親)
新興宗教にはまった友人に話を聞いたところ、古本屋で立ち読みしてたらビビッと来たという説明だったのでどうしようもないんだなって思ってたんだけど、母の思考回路をよくよく考えてみると、まあ一言で言うと短絡的なんだけど、なぜそういう思考方法に至ったのかというと、多分だけど、小さい頃、或いは成長過程において思考することを禁止されていたのではないかと思うんだよね。
途中の思考を禁止し、有無を言わさず結論のみを受け入れさせられてきたのではないかなと。
だからゴールしか見えないというか、見てはいけないと思っているんじゃないかなと思った。
誰かが「アトピーは治りますよ!」って言ったとして、その言葉だけを見て、あ、治るんだって思って飛びつく。その後についてくるのがその「治るまでの道のり、行動」なんだな。
ゴールが分かっているので、そこに向けて努力すればいいという、それが信仰というものなんだと思った。
いわゆる帰納法。違うんだけど。でもそういうこと。
そもそもそのゴールとして設定されていることそのものが、まず、でっち上げかもしれないと疑うことが許されていなかった人生なんだな。そしてそのゴールっていうのは、本当なら自分の思考の上に存在するものだという考えがまずない。ゴールは確かに絶対的に存在しているという前提のなかで物事をとらえる癖がついている。
でもさ、本沢山読んでいれば「え?違うんじゃね」って思えない?
つまり読書は究極的に自分を救うことになるってこと。
今朝1時に起きたから眠くてたまらんよ。
(1時に起きたって何。)
子供たちが大分育ったのですっかり気が緩んで頭のネジも緩んで何もかもどうでもよくなって自分のことに集中でき・・・ない、まだできない。
15分の早歩き散歩でいいらしい。運動。ならやるかなってちょっと思った。昨日すっごい腹がいっぱいになるまで食べたので、歩こうかなって思ったんだけど、歩けばよかった、みんなを家に残したまま。もうそういうのやってもいいんだった。
NY市長が、名前なんだっけ、マンダニみたいな名前の人になってよかった。少しだけ希望の星。ほんの小さな灯りだ。
新興宗教にはまる人は皆こぞって、心の弱ったその隙をつかれている。新興宗教から抜け出すには、正統な宗教に移動させるしかないんだって。まじかい。どうしても人間の作ったルールに心を預けたい人っていうのがいるんだな。普通に猫様飼えばいかに人類が劣った醜い存在か分かるのに。そしたらどれだけ人類が作ったものに心を預ける価値がないか分かるのに。。。
猫の美しさと完璧さはあらゆる宗教と人間の想像力を簡単に凌駕するよ。。。
あとさ、心に隙間が出来たら本読みな?
一応「もう7時だよー」と声はかけたが反応がないな…。
Twitterみたいにログインしっぱなしで気軽に投稿出来ないかな、なんとかして。ブログとマイクロブログは立ち位置が違うと言えばその通りなんだけど中川翔子さんみたいにめちゃくちゃな頻度で更新したい
日本語で設定しているせいか、日本人の投稿がおすすめに出てくるんだけど、かなりの率で「投稿しても誰も見てくれない。」「どうせ見てもらえないのにこんな毎日投稿してる」「フォロワー数が全然伸びなくてもうやめたい」が流れてくる。
一番ひどいのが「誰も見てくれないからもう絵はやめよう」というもの。
絵は多くの人に見てもらうために描くもんじゃないんだ!描きたいから描くんだよ!
やめればいいのにって私は思うんだけどさ、これがまた英語バージョンでも流れて来てて、わー世界共通すぎ人間って思ったよ。
国境まじ意味がないってわかんだね。文化はさ、その土地の風土とかなり密接にかかわっていると思うんだけど、その文化の中で暮らす人間っていうのは本当に地球上どこでも同じなんだなあと強く思います。
またこれが面白くないけど世界中に同じように分布していて、集団をつくっている。集団の中でトップの方にいるのは、なりふり構わない人類。他人の気持ちとかない。考えない。だからトップに行ける。
これも世界共通。そんで勉強して人類というものの未来を考える人たちが集団のなかにポツポツといる。そして残り全部、自分のことだけ考えて生きる人々とその犠牲者。
集団はこれで構成されている。
国境まじいらねえ。攻めんなよ。。。
朝、鏡に映った自分のぼさぼさ頭と、カーディガンの裾からはみ出たシャツを見て、あ、これだと思ったわけです。
真面目なのが大事なんじゃなくてきちんとしていることが大事なんだなと。つまり私は髪の毛を暖かい両手でギュウギュウ押さえつけ、シャツの裾をズボンの中にしまいました。
ズボンはその際降ろさなかった。偉いから。
ようするに私はあらゆる点において適当でいい加減なので、こう、もう少しきちんとしていかないとなって思った次第であります。
しかし私を表す言葉がいい加減だのだらしないだのテキトーだの、なので、きちんとすることは非常に神経を使うことであります。ちゃんとしてるだろうかと常に神経を尖らせてビクビクしながら生きる。
こうするしかない。ん?まてよ…?社会がきちんとしすぎているのでは…?
嫌すぎ
ネットでよく「席を立て!って言う年寄り」にあった話を見るけど、そんなんいるかなあって思ってたら昨日いた!!!!
そこそこ混んだ湘南新宿ライン、新宿駅から私と末っ子は立っていたんだけど、池袋で座ったわけです。そしたらばあさん二人組のうち一人がでっかい声で「ちょっとそこ優先席でしょ?!譲ってくれない?ずっと立ってるの、座りたいのよ」とこちらの方に向かってズカズカと歩いてきた。(走行中ね)
そしたら私の右隣の半ズボンを履いた少年が立ち上がったので、婆さんは「もう一人!誰か!こっちは二人なのよ!」と言った笑
そして少年が退いた場所を見て、「あら、ここ優先席じゃなかったのね、ごめんなさいね!あなた座りなさいよ(友人に)」
友人が、「アタシはいいわよ大丈夫よ」と言い、最初の婆さんが「優先席座らせてくれない?」と優先席の若者に声をかけた。笑
優先席の若者は快く立ち上がり、どうぞ、と言った。ばあさんは「ありがとうね、一駅だから、もうずっと立ってて疲れちゃったのよ」と言って座った笑
若者はいえいえと言って少し離れた。ばあさん二人は私の隣に座り、ふー疲れたと言って大宮で席を立ち、先ほどの若者にありがとうねって言って去って行った。
優先席を頑なに譲らない若者もどうかと思うわ。日本はどんどん貧富の差が開いて才能を持つ若者にチャンスが行かなくなるんだろうなあ。あ、前からか。
老人が多いだけあって無法地帯。
まず目の前に、「病院での携帯電話による通話はご遠慮下さい」と書いてある貼り紙の目の前で通話するジジイ。
次に診察を終えて荷物をまとめ、上着を着る前にシャツをズボンにしまおうとして、いきなりズボンを脱ぐ爺さん(笑)
私の目の前でいきなりズボンを下ろしたのでめっちゃ見てやった(が、後ろ向いてたので見られていることに気づかず)。
ケイオス。隣に座る婆さんにでっかい声でおれぁ90でよお!て言い出すも婆さんに百倍くらい言い返されて、聞き側に回る爺さん笑
退屈しねえぜ…待ち時間…!