もう言ったっけ。最近自分のブログを全く読み返さないので何を書いたのか全部忘れちゃう☆
登場人物の、どれが誰なのか分からなくなりまくりでしたが緑の天幕はとても良い本でした。
「ロシア」とひとくくりに言うのもなんだけど、所謂「ロシア」文学って、そんなにたくさん読んでないけど悉く文学作品が登場するんだよ。なんでなんだろう。
必ずと言っていいほどプーシキンが出てくるし、ソ連ものになるとドストエフスキーやトルストイも出てくる。
日本の文学で古典を引用しまくりの文学ってあるかな。中々思いつかないんだけど。プーシキンそんなに偉大なの。
「緑の天幕」は中々時代のリアルな波に流されまくりの才能ある一般人が一生懸命誠実に生きる話でした。「ラーゲル」って単語が何回も出てくるんだけど、ラーゲルってなんだろって最初思いつつ、読み進めると「ラーゲルに3年間いた後、出てまた逮捕された」り、「ラーゲルには二度と戻りたくな」かったり、「ラーゲル行きになるだろうと」脅されたりしていたので恐らく「逮捕されたものが行く場所」だと思ったんだけど、こういう風に文脈からある単語がどういうものなのか想像、判断するのってむかーし読んだ「秘密の花園」以来だなって思いました。「ivyのせいで入口が見えず」「壁は一面ivyに覆われていて」「そのivyを手でかき分けていくと入口が見えた」でアイヴィーが何なのか分かっていい気分。
杉田玄白がオランダ語の本を訳すがごとし。
ラーゲルはそのあと結局ネットで調べちゃったんだけどね。刑務所かと思ったら強制労働付きの収容所だった。
日本語ではラーゲリになっていた。格変化しとる。
前に読んだ、「同志少女よ敵を撃て」で、リュドミラ・パヴリチェンコが出てきて、作者はずいぶん図々しいなって思った話した気がするんだけど、「緑の天幕」はリュドミラ・パヴリチェンコどころじゃなかった。歴史上のあらゆる実在の人物が出てきまくり。
あまりに出て来まくるので大混乱を極めた。
えっえっどういうこと!?てなった。そこに創作上の人物を自然に放り込みすぎ。そういうやり方もあるんですね?
故人を自在に操りすぎ。
その辺も作品のリアリティに付与してるんだろうね。そんな中で一生懸命生きる姿が淡々と描かれ、感動を誘った。
しかしそんなに沢山作家や作品がどの文学作品にも出てくるのになんで日本語に翻訳されているものってこんなに少ないんだろう???と、益々思う。
ソルジェニーツィンもプーシキンもナボコフもあらゆる文学作品に出てくると言っていいほど出てくるのに日本語になっているものがほとんど存在しないよ?なんで?なんで?
ソ連の文学作品は淡々としていて乾いた空気、または湿っていてもひんやりしていて真っ白な空気で、いいよ?すごく?
プーシキンは詩人だからかなってちょっと思ったけどマヤコフスキーはめちゃくちゃ翻訳されてるから、好みの問題なのか?なぜだ?ナボコフの「賜物」は絶対読んでみたいよ。「ロリータ」じゃなくて。なぜないんだ。
はっ……!「売れない」から……?
買うよ……!私買うよ!!