リュドミラって言う名前が如何にもロシアっぽいなって思う。
新潮社はクレストだったかそんな名前のシリーズで色んな現代文学を随時翻訳していて、その随時っぷりがすごい当たりはずれの多さも招いているんだけど、気になる本が手軽に読めるというメリットもある。そのなかにリュドミラ・ウリツカヤがいる。
リュドミラ・ウリツカヤはロシアの作家で、というか、ソ連の作家というべきか、例のドヴラートフやブローニン(のちのノーベル文学賞受賞詩人)のようにソ連時代に国内で出版を認められていなかったような恵まれない作家とは違い、デビューはしていたし、連盟的なものにも名を連ねてきた人らしい。
つまりソ連国内での出版が許され、ソ連の人たちがその作品を手に取って読むチャンスはあったんだけど、あまり評価されていなかった人。
ブッカー賞をもらった時、「最初にノミネートされた作品の方で受賞してたらうれしかったけどね」ってやさぐれていたらしい。笑
ずっと気になっていたんだけど(タイトルが緑の天幕といういかにも面白そうなものだったので)、わが田舎町の図書館には、その「ソーネチカ」(最初にノミネートされていた方)と「緑の天幕」の両方が置いてあった。
わが町の図書館本当に良いんだよ。
まぁとにかくその両方を借りて、まずは若いころに書いた方の「ソーネチカ」を読んだわけです。
もしこれを私が若い頃に読んでいたら発狂するレベルのバカバカしさでした。バカバカしいという言い方は適切じゃない。しかし感情を煽られる問題作となっていたでしょう。例えて言うならフランス映画の「髪結いの亭主」を見た後のようなイラつきが残ったでしょう。
しかしまぁ随分年を取って、若々しさのかけらも残っていない今読んだので、すんなりと「あそう」って言えました。よかった。
好きか嫌いかで言えば、家具や調度品は好き。空気も好き。しかし登場人物はその調度品の一部となっていて別に感情移入も何も出来ない。悪いことじゃない。ここで登場人物に感情移入したらこめかみの血管から鮮血が吹き出ちゃう。
遠く離れた、他人のやってることって感じで読み進めるといい感じに流れた。
他人事、という言葉がぴったり。ドストエフスキーは血沸き肉躍ったけどウリツカヤは寒くて白い光のさす部屋で綺麗に時間が流れているのを目を細めてみてる感じでした。
同じようにドヴラートフの作品も他人事なところがあるけど、もう少しひょうひょうとしていて好き。
リュドミラ・ウリツカヤに限らずだけど、ロシア人はその名前に父親の名前が入ってくるくらい、父親の存在が全員の中にある。
女性でも名乗る時に父親の名前も入った名前を言わなければならない。それほど父親の存在が常に自分とある。そんな国で生まれ育って、父親の存在を無視して物語を作ることなんて出来るんだろうか。どこにいても必ず父親が居て、それを自分に当てはめて想像するだけで無理ィ!!
リュドミラ・ウリツカヤは父性がエヴゲーニエヴナだって。父親の名前がエヴゲニーなのがわかんだね。
「緑の天幕」を読み始めたけど、ドストエフスキーやトルストイのような読みづらさがないからサクサク進むには進むんだけど、部屋の掃除が待っていて今読むのはやめとこうと思う。